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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年8月16日 サムエル記上24章1~16節「サウルとダビデ」

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招詞 ローマの信徒への手紙12章19、21節
「 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、

わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」

 

 

 

・愛する兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。
今日の聖書箇所には、サウルとダビデという二人の人物が出てきます。
教会に初めて来られた方や、聖書にあまり馴染みのない方にとっては、名前だけでは少し分かりにくいかもしれません。けれども、この二人の関係は、決して遠い昔の王様たちだけの話ではありません。そこには、私たちの人間関係にも通じる、恐れ、嫉妬、失望、怒り、そして信頼の問題が描かれています。

・サウルは、イスラエルという国の最初の王でした。人々から選ばれ、期待され、国を導く立場に置かれた人物です。しかし、やがてサウルは神に信頼して歩むことから離れ、自分の立場や名誉を守ることに心を奪われていきます。王であるにもかかわらず、心の中には、自分の地位が脅かされるのではないかという深い不安がありました。

・一方、ダビデは、もともとは若い羊飼いでした。けれども神は、このダビデを次の王として選ばれます。ダビデは巨人ゴリアトを倒したことで人々に知られるようになり、戦いでも成功を収めます。民はダビデを喜び、ほめたたえるようになりました。そのことが、サウルの心に深い嫉妬を生みます。
本来なら、サウルとダビデは敵同士ではありませんでした。ダビデはサウルに仕え、サウルのために戦い、国のために働いていました。しかも、ダビデはサウルの息子ヨナタンと深い友情で結ばれていました。ですから、この二人の関係は、単純な「善い人」と「悪い人」の対立ではありません。
近い関係であったからこそ、信頼が壊れた時の痛みも大きかったのです。

・サウルは、自分を守ろうとする恐れの中で、ダビデを敵と見なすようになります。
そしてダビデの命を狙い、追い回します。ダビデは何も反逆していないにもかかわらず、逃げなければならなくなりました。王に仕えていた若者が、王から命を狙われる逃亡者となったのです。

・今日の場面は、そのような逃亡生活の中で起こります。サウルは三千人の兵を連れてダビデを追っています。ところが、ある時、サウルが何も知らずに洞窟の中へ入ります。
その洞窟の奥には、実はダビデとその仲間たちが隠れていました。つまり、命を狙われていたダビデの目の前に、命を狙っているサウルが、無防備な姿で現れたのです。

・もし皆さんなら、どう思うでしょうか。「今こそ仕返しをする時だ」「これで苦しみが終わる」「神が与えてくださったチャンスではないか」と考えるかもしれません。実際、ダビデの仲間たちもそのように言いました。
しかし、今日の御言葉が私たちに問いかけるのは、まさにここです。
自分を傷つけた相手が、自分の手の中に落ちてきた時、人は何を選ぶのか。
正しさを握りしめて復讐するのか。それとも、裁きを神に委ねるのか。

・私たちの人生には、心の奥から「今こそ言い返してよいのではないか」「今こそやり返してよいのではないか」と思えてしまう時があります。
傷つけられた言葉があります。誤解された経験があります。
正当に扱われなかった悔しさがあります。そして、相手が弱い立場に置かれ、自分の手の中にチャンスが転がり込んできた時、私たちの心は静かに、けれども深く試されます。

・今日与えられているサムエル記上24章1~16節は、まさにそのような場面です。
命を狙われ続けていたダビデの前に、追跡者サウルが無防備な姿で現れます。
場所はエン・ゲディの荒れ野、洞窟の奥です。
サウルは三千の兵を連れてダビデを追っていましたが、ひとり洞窟に入ります。
その奥には、ダビデとその兵たちが座っていました。

・ダビデの兵たちは言います。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」
人間的に見れば、これほど都合のよい状況はありません。
サウルを倒せば、逃亡生活は終わり、王への道が開けるように見えます。
しかし、ここでダビデは、神の御心と自分の都合を取り違えませんでした。

・ここで私たちは、礼拝の初めに聞いたローマの信徒への手紙12章の御言葉を思い起こします。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」
そして最後には、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と語られます。
今日のダビデの姿は、この御言葉を旧約聖書の物語の中で生きたものとして

私たちに見せています。

一、復讐の機会は、信仰の試練である

・ダビデはサウルの命を奪う代わりに、上着の端をひそかに切り取りました。
ところが、その直後、ダビデは後悔します。彼は兵たちに言いました。
(24:6)「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」

・ここにダビデの信仰の鋭さがあります。彼は、サウルの罪を軽く見たのではありません。サウルの追跡が正しいと言ったのでもありません。
むしろ、ダビデは自分が不当に扱われていることを知っていました。
それでもなお、「だから自分の手で裁いてよい」とは考えなかったのです。

・信仰とは、ただ神を信じると言葉で言うことではありません。
自分に有利な状況の中でさえ、神の前に立ち止まることです。
怒りが正当化される時にも、神の裁きに委ねることです。
ダビデは剣を握る力を持っていました。
しかし、その力を使わない自由を、神への信頼によって選び取りました。

・この姿は、単なる道徳的な忍耐ではありません。
ダビデの信仰は、自分の正しさを証明することよりも、主の正しさに身を置く信仰でした。そして礼拝の初めに聞いたローマ書の御言葉が語るように、神の憐れみを受けた者は、悪に悪を返す生き方から、善をもって悪に勝つ生き方へと招かれています。

・さらに主イエスは、山上の説教でこう言われました。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(新約8Pマタイによる福音書5章44節)
これは、傷つけてきた相手をすぐに好きになりなさい、という感情の命令ではありません。そうではなく、自分を傷つける相手を、自分の裁きの中に閉じ込めるのではなく、神の御前に置いて祈ることです。
ダビデが剣を納めた姿は、復讐を禁じるだけでなく、祈りへと招く信仰の姿として、主イエスの言葉によってさらに深められます。

二、悪に悪を返さない道

・洞窟を出たダビデは、サウルの背後から声をかけます。(24:9)「わが主君、王よ。」
そして顔を地に伏して礼をします。ここで驚くべきことは、ダビデがサウルを侮辱せず、勝ち誇らず、あくまで敬意をもって語っていることです。

・ダビデは、自分の手にある上着の端を証拠として示します。
(24:12)「わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。
御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。」
ダビデは沈黙して逃げるのではなく、真実を語ります。
しかし、その語り方は、報復の言葉ではなく、神の前に立つ者の言葉でした。

・私たちは時に、「言わなければ損をする」「強く出なければ負ける」と思います。
しかし、聖書が示す強さは、相手を打ち負かす強さではありません。
悪に飲み込まれず、悪を悪で返さず、真実を愛をもって語る強さです。
ダビデは、自分の正しさを主張しながらも、相手の命と尊厳を踏みにじりませんでした。
新約357Pエフェソの信徒への手紙4章32節には、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」とあります。赦しは、私たちの心の広さから始まるのではありません。神がキリストにおいて赦してくださった、その恵みから始まります。だから、福音は私たちの言葉を変えます。
相手を切り裂く言葉ではなく、真実を語りながらも相手の命を踏みにじらない言葉へと、聖霊が私たちを造り変えてくださるのです。

三、裁きは主に委ねられる

・(24:13)ダビデは言います。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。」これは、ただ消極的に我慢している言葉ではありません。
主こそ正しい裁き主であると信じる、積極的な信仰告白です。

・「主に委ねる」とは、不正を見過ごすことではありません。
悪を悪として見つめ、痛みを痛みとして抱えながら、それでも最後の裁きを自分の手から神の手へ返すことです。

・ただし、ここで大切なことを一つ申し上げておきたいと思います。
今日の御言葉は、いじめられ続けている子どもや、家庭・学校・職場・教会の中で弱い立場に置かれ、傷つけられ続けている方に向かって、「黙って耐えなさい」「逃げてはいけません」「助けを求めてはいけません」と命じる言葉ではありません。
復讐を手放すことと、危険な場所にとどまり続けることは同じではありません。
神に裁きを委ねることと、不正や暴力を見過ごすことも同じではありません。
もし今、誰かから傷つけられ続けているなら、そこから離れてよいのです。
信頼できる人に助けを求めてよいのです。必要ならば、教師、家族、教会の牧会者、専門機関、警察などに相談してよいのです。それは信仰が弱いからではありません。
神があなたの命と尊厳を大切にしておられるからです。
ダビデも、サウルを殺しませんでした。しかし同時に、サウルのもとへ戻って自分を危険にさらし続けたわけではありません。
彼は逃げ、距離を取り、自分の命を守りました。ダビデが手放したのは、自分の手で復讐することでした。自分の命を粗末にすることではありませんでした。
ですから、今日私たちが聞くべきことは、「傷つけられても我慢し続けなさい」ということではありません。そうではなく、「悪に悪で返さない道を、神に支えられて選びなさい」という招きです。そして同時に、傷つけられている人を一人にせず、その人が安全な場所へ逃れ、助けを受け、尊厳を回復できるように、教会が共に立つという招きでもあります。
私たちが裁き主になろうとするとき、心は怒りに支配され、相手だけでなく自分自身も傷つけてしまいます。
しかし、主に委ねるとき、私たちは復讐の鎖から解き放たれます。

・ここで私たちは、ダビデの中に、やがて来られるまことの王、イエス・キリストの姿を見ます。
主イエスは、罪のない方でありながら、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
ダビデは剣を納めましたが、キリストはご自身の命を差し出されました。
そこに、神の裁きと神の赦しがひとつに現れています。

・(新約431P)ペトロの手紙一2章23~24節は、キリストについてこう語ります。
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」ここに、ダビデの道を完成する主イエスの姿があります。主はただ報復を控えたのではありません。十字架において、報復されるべき罪人を救うために、ご自身が罪を担われました。ですから、私たちが善をもって悪に勝つことができる根拠は、私たちの忍耐力ではなく、十字架で悪に勝利されたキリストご自身です。

 

四、福音が私たちを復讐から解放する

・私たちは、ダビデのように立派だから復讐を手放せるのではありません。
むしろ、私たち自身もまた、神の前には赦しを必要とする者です。
サウルのように嫉妬や恐れに捕らわれることもあり、ダビデの兵たちのように都合よく神の御心を解釈したくなることもあります。

・しかし福音は、そんな私たちに告げます。(新約279ローマの信徒への手紙5:8)「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった。」
神は、私たちの罪を見過ごされたのではなく、十字架において正しく裁き、同時に深く赦してくださいました。
だからこそ、私たちは自分で裁き返さなくてもよいのです。
主が正しく裁かれ、主が憐れみをもって救ってくださるからです。

・ですから、福音的な生き方とは、「我慢しなさい」という命令だけでは終わりません。
まずキリストが、私たちの罪と怒りと裁きたがる心を十字架で担ってくださったのです。
私たちは赦された者として、初めて赦しへと歩み出すことができます。
私たちは愛されている者として、初めて敵のために祈る道へ導かれます。
これは人間の努力の成果ではなく、聖霊が私たちの内に結ぶキリストの実です。

・この新しい生き方は、聖霊によって与えられるものです。
怒りを無理に押し殺すだけなら、心の奥には苦みが残ります。
しかし、聖霊は私たちをキリストへ結び、キリストの赦しを思い起こさせ、祈ることのできない相手のためにも祈る心を、少しずつ造ってくださいます。
敵を愛する道、赦し合う道、善をもって悪に勝つ道は、十字架の主が先に歩まれ、復活の主が今も私たちと共に歩んでくださる道なのです。
ですから、私たちは今日、自分の力で立派な人間になろうとして礼拝堂から出て行くのではありません。
十字架の主に赦され、復活の主に支えられ、聖霊に導かれて、もう一度、家庭へ、職場へ、地域へ、遣わされて行くのです。

・復讐を手放すことは、弱さではありません。
それは、十字架の主に結ばれた者の強さです。
怒りを否定するのではなく、怒りの支配から解放されることです。
相手の罪を小さくするのではなく、神の裁きと恵みを大きく信じることです。
30分の説教として聞く時、この物語は私たちに急いで結論を出させません。
サウルは単なる悪人ではありません。恐れに捕らわれ、嫉妬に縛られ、自分の王座を守ることに必死になった人間です。ダビデもまた、完全な人間ではありません。けれどもこの場面で、彼は自分の怒りよりも主を大きくしました。私たちも同じです。
私たちの中にはサウルがいます。自分を守るために人を疑い、恐れから人を追い詰める心があります。
同時に、主に立ち止まらされ、剣を納めるよう招かれているダビデの姿もあります。
そして、その両方の私たちを救うために、まことの王キリストが来てくださいました。

 

結び

・今日、私たちはそれぞれの「洞窟」に立たされているかもしれません。
誰かを責めることができる場所、仕返しのできる場所、自分の正しさを証明したくなる場所です。
しかし、その暗がりの中で、主は私たちに問いかけておられます。
「あなたはその手を何のために用いるのか。
裁きを自分で握るのか、それともわたしに委ねるのか。」

・ダビデは言いました。「わたしは手を下しはしません。」
この言葉は、弱さから出た沈黙ではなく、主を信頼する信仰の決断でした。
そしてその道は、十字架の主イエスによって完成されました。
主イエスは、悪に負けることなく、善をもって悪に勝たれました。
それは敵を滅ぼす勝利ではなく、敵であった私たちを神の子として迎え入れる勝利です。
私たちもまた、この主の赦しに生かされ、悪に悪を返さず、真実と愛に生きる者とされていきましょう。
聖霊が私たちの心を治め、怒りに代えて平和を、報復に代えて祈りを、恐れに代えて信頼を与えてくださいますように。
私たちが、敵を愛し、迫害する者のために祈り、キリストによって赦された者として互いに赦し合う歩みへと遣わされますように。
悪に負けることなく、善をもって悪に勝たれた主が、今日も私たちの弱い手を取り、平和を造り出す手として用いてくださいますように。

 

祈り

・主なる神さま。私たちの心には、傷つけられた時にやり返したい思いが起こります。

自分の正しさを握りしめ、相手を裁きたくなる弱さがあります。

どうか、十字架の主イエスを仰がせてください。

私たちが裁き主になるのではなく、正しく憐れみ深いあなたに委ねることができますように。聖霊によって、私たちの手と言葉を平和のために用いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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